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阪神・淡路大震災の年に生まれた神戸市職員 能登に派遣され何を思う

ことしの元日。テレビに映し出された能登半島地震の映像を見て「これは大変なことが起きた」と感じました。

私は技術職員ではないし災害対応のスキルもありませんが、同じ自治体職員が昼夜をとわず働く姿を想像すると、居ても立ってもいられない気持ちに。

現地派遣の希望調査があったので立候補すると、神戸市が支援を担当する珠洲市へ1年間、長期派遣されることになりました。

今日で震災から半年。この記事では、4月から珠洲市に派遣された私が、この3カ月で見たこと、感じたことをお伝えします。


私のプロフィールと仕事内容

申し遅れました、広報戦略部から珠洲市に派遣されている藤澤です。

私が生まれたのは1994年12月。その3週間後に、阪神・淡路大震災が起こりました。そのため、震災の記憶はまったくありません。

珠洲市での私の仕事は、広報支援です。珠洲市のホームページやLINEの更新、さまざまな支援制度や復興計画の情報発信をしています。

なお神戸市からは現在、4人の職員が長期派遣されています(他は土木、建築関係)。

いちばん左が私です

被災するとはこういうことか

4月、能登半島の最先端に位置する珠洲市に初めて足を踏み入れました。

ひび割れた地面や隆起したマンホール、倒壊した多くの家屋を見て言葉を失った私。

ニュースで映像を見ていましたし、1~3月に短期派遣されたメンバーから聞いてはいましたが、発生から3カ月経っているのだから少しは状況がよくなっているだろうと考えていたため、厳しい現状にショックを受けました。

そのショックを、父親に電話で伝えたところ、こんな言葉が返ってきました。

「阪神・淡路大震災のときもそうやった。今は信じられへんやろうけど」

当然のこととして冷静に語る父の口調に、これまた衝撃を受けました。

物心がつく頃には普通の生活ができていたので、私自身が「神戸は震災からの復興途中だ」と感じたことはありません。でも一緒に生活してきた両親の中には、当たり前のように震災は存在していた……。

うまく言えないのですが、「被災するってこういうことか」と感じた出来事でした。

能登の現状、地区ごとに差

最初にショックは受けたものの、珠洲市役所の近くに住む私は、日常に近い生活ができています。

時短営業ではありますが、スーパーで食材を調達できるので自炊をしていますし、職場の方に声をかけてもらって飲みに行くこともあります。

スーパーの鮮魚コーナー

そのときの話題は「学生時代、部活何やってたん?」とか「週末はどうしてるの?」とごく平時のもので、ずっと震災ムードというわけではありません。

また飲食店も少しずつ再開し、お気に入りの店もいくつかできました。食べたいものや、時間の過ごし方を「選択できるようになった」と気づいたときに、日常を感じることができました。

お気に入りのカレー屋さん

一方で、同じ市内でもまだ道路が閉ざされた地域、水道が復旧していない地域があります。とくに津波が到達した地区、2023年の地震で被害を受けた地区、日本海側の地区では被害が甚大です。

その理由は、土砂崩れの影響で道路が寸断されて浄水場までたどりつけなかったり、メーターまで水は来ているけれども倒壊家屋が多くて修理に時間がかかったりするからです。

土砂崩れで道路が寸断

地区ごとにおこなわれた復興計画策定のための意見交換会を聞きに行ったとき、少しずつ日常を取り戻しつつある地区では「今後の珠洲のために」「子どもたちが戻って来られる場所を」など未来を見据えた意見が多かった一方で、

被害が甚大な地区では「水が出ないことには生活や事業再建どころじゃない」「仮設住宅にはいつ入れるのか」と、ライフライン復旧を切に求める声が。

同じ市内でも、これだけ状況に差があるのです。まるで違う時間を生きているような感覚になりました。

大きな余震を体験して

そんな中、6月3日の早朝に震度5強の地震が発生。

能登半島では1月6日以来の大きな余震で、私にとってはこれまでの人生で経験した中で、一番大きな揺れでした。

本当に怖かった。緊急地震速報で目が覚め、寝起きでわけもわからないまま、枕で頭を押さえながら揺れが収まるのを待ちました。

震度4以上の揺れで職員は市役所に集まることになっているため出勤の準備をしていると、畳みかけるように震度4の揺れが。またしても恐怖を感じました。

職場に行くと、同僚のみなさんはそこまで驚いている様子ではなかったです。「久しぶりでびっくりしたけど、慣れてしもた部分もあるなぁ~」と苦笑い。

大地震が初めてだった私は、それから数日間なかなか寝付けませんでした。みなさんはずっと、この恐怖と戦ってきたんだな……。

お気に入りの風景

ここで、私が珠洲で見つけた、お気に入りの風景をいくつか紹介します。

■さいはてのキャバレー

かつてあった、珠洲と佐渡島を結ぶ定期船の待合室。定期船の廃止後は、奥能登国際芸術祭2017を機に「さいはてのキャバレー」として生まれ変わり、さまざまなイベントがおこなわれてきました。

地域のシンボル的な存在でイルカの絵も大好きなのですが、地震の被害が大きく解体の方向で検討されることに。今のうちに記憶と写真にとどめておこうと思います。

■禄剛崎灯台

能登半島の最北端にある灯台です。禄剛崎という見慣れない漢字、なんと「ろっこうさき」と読むんです。六甲山のある神戸と縁を感じますね。

震災では灯台のレンズ部分に被害があったものの、外観は保たれています。

■珠洲市役所の屋上

高い建物がないので、まち全体を見渡せます。晴れた日には海の向こうに立山連峰が望めて、とてもきれいです。

神戸や全国のみなさんへ

能登半島に心を寄せて「何かできないか」と思っている方もたくさんいらっしゃると思います。

よく聞かれるのが「もう観光に行けるの?」です。
道路状況は少しずつ改善され、道を選べば能登半島のどの市町にもアクセス自体は可能になりました。

ただ、あくまで私の印象ですが、店舗の営業状況もまちまちですし、食事は可能ですが、宿泊となるとまだ難しいかもしれません。

今の段階では、能登の特産品を買うことや、ふるさと納税などで応援していただければと思います。

ふるさと納税は、(一部ですが)返礼品の発送を再開しました。

絶望と希望のあいだで

派遣される前は、「水が出ない」「復興が遅れている」などネガティブ部分にフォーカスした報道が多いことに「そんなマイナスなことばかり言わんと、前向きなことも言えばいいのに」と思っていました。

派遣当初からこのnoteのことは聞いていたので、ネガティブなニュースが多いぶん、自分はなるべく前向きな発信をしたいと考えていました。

でも、現地の被害状況の解像度が上がれば上がるほど、前向きな発信をすることに怖さを感じるようになった自分がいます。

未来を感じるような話題にふれたい一方で、最低限の生活が立ち行かない人たちには嫌味に感じられるのではないか……と伝え方の難しさを感じます。

6月3日現在、珠洲市には中期・長期で全国から58人の応援職員が派遣されています。

もともと珠洲市役所の職員数が400人程度なので、普段より1割以上の増員があれば、現地の状況は大きく改善すると思っていました。

ただ実際には、今も残業する職員が多く、まちの様子も劇的に改善された印象もありません。先に述べたように地区ごとの差も大きいです。

みんな一生懸命働いているのに、先が見えない。応援に来ているけれど力になれているのだろうかと、絶望や無力感に苛まれることもあります。

そんな不安の中でも、地元高校の吹奏楽部コンサートや野球など、人が集まって笑顔になるシーンには希望を感じ、「人間のエネルギーはすごい」と私のほうが勇気をもらいます。

絶望と希望のあいだを行ったり来たりして、葛藤を繰り返しながら、私の能登での日々は続いていきます。

<この記事を書いた人>
ふじさわ/広報戦略部
神戸生まれ神戸育ち。実は双子ちゃん(顔は似ていない)。麺職人見習い、他自治体勤務を経て、2年前に神戸に帰ってきた。
被災地支援に不思議な縁を感じながら、妻とセキセイインコ2羽を神戸に残し、日々奮闘中。趣味はアウトドア。珠洲に来てからは、1人でできる趣味を見つけるためにカメラを購入。撮影と健康のために、最近は散歩も始めた。

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