能登半島地震から7日、 珠洲市の避難所を支援した第一次隊の記録
能登半島地震の発生から7日後、石川県珠洲市の避難所の運営を支援するために、6人の職員が神戸市役所を出発しました。
その1人が私です。
地震から1週間ほどしか経過しない現地で、何をしてきたのか、何を感じたのかを、思い切ってお伝えすることにしました。
避難所駐在ではなく巡回訪問
当時、珠洲市内には避難所が95か所ありました。このうち避難している人が比較的多い14の避難所には、珠洲市、福井県、千葉県のいずれかの職員が常駐しています。
ところが、残りの81か所には行政職員がいないので、住民たちで避難所運営を行っています。
そこで私たちの仕事というは、この81カ所の避難所を順番に訪問して、被災した人たちが必要としているものは何か、避難所が今後どうなるのかを調べることでした。さらに、電気、ガス、上下水道などの状況を把握して、珠洲市役所に届けます。
避難所への道中に津波の爪痕
午前6時30分、私たちが寝泊まりしている体育館の照明が灯ると、隊員たちが一斉に動きだします。ウエットティッシュで顔を拭いて、体温を測定。
そのあと、6人で一緒に朝食をとりながら、お互いの体調を点検。朝食は神戸を出発するときに買い込んだロールパンとウインナー、そしてインスタントコーヒーでした。
午前7時50分、兵庫県10人、南あわじ市3人、熊本市8人、そして私たち6人が一堂に会して全体ミーティングをします。全員が私たちと同じく避難所のサポートにあたっています。
チームを統括している兵庫県職員が、どの避難所をどのチームが訪問するのかの指示を出していきます。
午前8時30分、午前中に訪問する避難所を決めて、2人ずつ車に分乗し、計3台で出発。
まず向かったのは、三崎町寺家(みさきまちじけ)という集落です。事前に、このエリアには5つの避難所があると聞かされていました。渡された地図を頼りに、地震で傷んだ道を安全を確保しながらゆっくりと進むこと30分。
日本海が見えるところに到達。このあたりは津波が襲ってきた場所で、その痛々しい痕跡が残っていました。
そこから現在地と訪問場所の位置を確認しながら、20分ほど車を走らせると、きょう訪問予定の1つ目の避難所に到着しました。
役立つのは住民同士のつながり
避難所になっているのはこのエリアの集会所。そこで、避難所の代表の方をつかまえて話を聞きます。
この地区では住民105人全員の安否確認が完了していました。各人の居場所がすべてホワイトボードに記されています。この集会所に避難している人が27人、自宅や車中泊している人が45人、親族を頼って遠くに避難した人33人です。正確に把握できているのに、驚きました。
代表の方によると、この地区はもともと住民同士のつながりが強い。地震直後から、それぞれができることを進んでやってくれるので自分にかかる負担が軽くなっているとのことでした。
2日前には福井県の保健師がやってきて健康指導を受けたそうです。食べ物や生活物資も足りていて、まもなく電気が復旧しそうで、そうなれば避難所から自宅に戻れる人が増えるだろうと話していました。
そこで、私たちからは電気が復旧したときの通電火災を防ぐために、ブレーカーを落としておく、たこあし配線の部分に気をつけることなど伝えました。
自分の体験を伝えたくなる悲しみ
次に訪問した避難所も地区の集会所でした。避難者は15人です。
集落全体だと40人ほどで、他の住民は自宅にいるようです。前日に日本赤十字社の医療班が来たようで、ここも生活物資は充足していて、食事の炊き出しも行っていました。
あと地震の直後には、近くにある農作物を集めて仕分けする出荷場に130人が避難していたが、今は誰もいない。というのは、そこに避難した人は浜辺にある神社に初もうでに来ていた人たちなので、住んでいる場所に移っていったようです。
この地区では前日に通電。いまは洗濯する水がほしい、洗濯できる場所の情報がほしいとのことです。
何かあったときの連絡先が知りたいと聞いてきたので、いざというときは、ためらうことなく配られている衛星電話で、市役所に直接電話をかけるよう伝えました。
その後、代表の方が私たちを海岸が見下ろせるところに案内してくれました。津波が襲ってきたときのことを、つぶさに説明してくれる彼。自身の体験を誰かに話さずにはいられなかったのでしょう。
さらに1カ所の避難所を訪問するとお昼に差し掛かっていました。
活動拠点の体育館に戻ると、午前中の活動を共有するミーティングが行われます。
そのあと、午後の訪問先に出発するのでした…
考えてみると、私たちの使命は、避難所を調査するだけではなかったようです。一番大事だったのは、「みなさんの見守りと、御用聞きをしていますよ」というメッセージを通して、不安を抱えている被災者の皆さんにそっと寄り添って「安心してもらう」ことでした。
私ができたのは、わずかなことでした。ただ、被災した全ての人がもとの生活の戻れるようにと、神戸に帰ってからもずっと願い続けています。
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